話題の映画、クィーンの「ボヘミアン・ラプソディー」を昨日観た。ドキュメンタリー調で、今風の性的弱者(主人公のボーカル、フレディ・マーキュリーは劇中で自らをバイセクシャルと告白している。これは有名なはなしだが、初めて知ったことは彼は出っ歯であることによりより口が大きく開くので、人より高く大きな声が出せるとの事)の視点を中心に撮られたものであった。私にとって良かったのは何年かぶりの劇場での鑑賞が、50歳以上の夫婦適用の2200円の割引を受けれたことである。そして、何より嬉しかったのは妻が見終わった時、感動したと言ったことである。よって、私は映画の批判を言うのを引っ込めた。
私は今年も150本の映画(DVD)を見た。確か去年も書いたことだが、好き嫌い、趣味に合う合わないはあるけれど悪い映画は1本も無かった。途中で観るのを止めたものも勿論無かった。
今日は大晦日。来年も皆様にとって良い年で有ります様に。私は良い映画が沢山観れます様に。
今年の営業も年内は明日まで、年明けは1月4日が初仕事です。
今年も沢山の方にお世話になりました。誠に有難う御座いました。
来年も引き続き宜しくお願いいたします。
今年は戌年、私は還暦の年男でした。平均寿命から言えば、あと20数回程は正月を迎えられるのと思うのですがどうでしょうか。
体力は落ちた意識はありません。もちろん2~30歳台のころとはだいぶ違うはずですが、あの頃は規則的に運動をしていなかったのでその違いはピンときません。しかし、数字で具体的に示されると「やっぱりなぁ」と思うこともあります。
まず、健康診断で測る身長が年間数ミリ程度確実に落ちています。171cmあったものが、測る度に毎年数ミリずつ縮んで今年は169.4cmでした。年間3mmづつ縮むとして、20年後には163cm程になる計算ですが、晩年の縮み幅はもっと大きくなるはずですから、小学6年時の158cm程度か。昔は大きく感じた母親が子供の背丈ほどになっているのも、明日は我が身と思っています。
まず、と書きましたが次が出てきませんし、第一マイナス部分をほじくる事になりますのでこれ以上やめますが、とにかくあと20年はバイクを乗り回していたい。そのためには体力を、と言う事なのですが、身長158cmですとせいぜい250ccクラスになるのでしょうか。大型バイクに乗れる間に世界一周早くをしなくては、と焦っている年の暮れです。
赤いトウガラシこと、ドカッティ1000DSがあと300km程で、購入後の走行距離が1万キロになる。この文もその時、祝1万キロの題で書く予定はしていたが、少し早めることにした。
それは10日間ほど修理入院していたからである。修理でバイクを工場に入れたのは覚えている範囲ではバイク生活史上初めてである。それも派手なスピードを出した事故ではなく、いわゆる立ちごけと言えるほどの低速で。
その日私には驕りがあった。自宅から会社まで300m程の距離だからと、普段は絶対しないハンドルのミラーバーに紙袋をひっ掛けてスタートした。ハンドルが自由を取られるケースもあるので危ないに決まっているので普段することはないのだが、その近さから気軽に掛けてスタートしたのである。
右のハンドル側に紙袋を掛けたのであるが、右カーブでは右ハンドルが下側に傾くので問題はなく第一カーブは曲がった。次の第二カーブは左カーブ。右ハンドル側は上に上がるのでそこで袋がブレーキを閉めてしまい、カーブの途中でストップ。傾いていた車体はそのまま左下に転倒。そこで左レバーのクラッチが半分に折れてしまう。気を取り直して、発進して次の右カーブは前と同様に難なくクリアーするものの、幹線道路の左カーブで転倒しそうになるものの、左足を出して踏みとどまる。そして、最後の会社の置場に入れるための左カーブでまたもや左側へ転倒。半分残っていたクラッチレバーも数センチを残して二度目の骨折。ついでに左ステップも曲がってしまった。
教訓。①バイクを乗るときは慣れ・驕りは禁物。特に近場ほど油断はするな。②イタリア製は部品が脆い。費用は高い。
今年も薪ストーブの季節になった。入れてから10年目となるが、今年初めて吸気と排気の説明を専門家から受けて、なるほどと思った次第である。今まではストーブにそのようなレバーがあるのは当然知ってはいたが、効果がある物とは思わず使わなかった。これは車に例えると、ローでスタートしてから高速道路までそのまま走っていたようなもので、燃費の悪さはこれにせいだったようだ。スタートで吸気と排気を最大にして、木に完全に燃え移ったら徐々にそれらのレバーを絞って行き、炎をボウボウ状態からユラユラ状態に変える。その状態ではストーブ本体の温度も上昇し、扉を開けての木の投入頻度も減る。そうすると、ススの室内への侵入も減るので、部屋の空気と壁天井は汚れにくい。寝る前に大きめの木を投入しておくと、深夜までユラユラ燃やしておけば、朝方でも室温は暖かいままである。知らないとは恐ろしいものである。
年の瀬の今日この頃、市内の幹線道路の街路樹の散髪のような剪定を見かけるようになった。なぜこのような無駄な事をするのだろうといつも思う。散髪された樹々は決して美しくない。農家は日陰を嫌うがこの名残が農耕民族の我々にはあるのだろうか。農業を継がなかった私は、春は新緑、夏は日陰を作ってくれ、秋は紅葉、冬はその訪れを知らせる、自然のままの樹木が好きである。
街路樹はそのままの状態で置いてほしい。特に私は年中、公私ともに市内をバイクで移動する。特に7・8月のヘルメットの中の頭、半そでのシャツから出ている腕、ズボンの中の足は直射日光が当たる場所で信号待ちをすると熱くて堪らなくなる。そこで私は信号まで50m手前でも街路樹の作る木陰の路肩でストップするようにして、青信号になる手前でスルスルと始動するようにしている。こうすると、移動中は生ぬるいとは言え風が体に当たるので何とかなるので、木陰で停車出来る場所では暑さにイライラせずにすむのである。
この木陰があると、バイクだけではなく歩行者や自転車、自動車までも助かるのは間違いない。落ち葉の処理が問題だろうと言う人がいるが、剪定の費用をここに充てれば解決するのではないか。樹木の高度化に支障がある電線の地中化を促進し、緑豊かで過ごしやすい街にできたらと思う。都市と大きな樹木は相性がいいので、海外の都市や東京原宿は言わずもがな、街に陰影や雰囲気を造り、都市価値を上げている例は無数にある。
今、石手川の岸辺から川面に覆いかぶさるように茂る大木が赤や黄色に紅葉し一年で一番綺麗な姿を見せている。初冬の夕日を浴びて光り輝くこれらの姿は、愛でるべき自然は春の桜だけではないなと思ったりもする。